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薩摩スチューデント

製造課の大井です。
今回は幕末の歴史ものです。

ここで読むのを止めたあなた、戻ってきてください。
鹿児島中央駅のロータリーにこんな銅像達が居ます。
 
 
 
 
バスに乗る際、気になっていたので調べてみました。
「若き薩摩の群像」という銅像で、鎖国時代にイギリスへ留学し後に日本の近代化に貢献した19人の若者たちです。
 
イギリスに渡ったそもそもの「きっかけ」が興味深いです。
1862年、横浜の近くの生麦村で薩摩のお殿様の大名行列に敬意を払わないとして、
イギリス人が犠牲になった「生麦事件」がそれになります。
 
賠償に応じない薩摩藩にイギリスは軍艦7隻を鹿児島湾に送り圧力をかけ、「薩英戦争」となってしまいます。
 
薩摩にとって当時世界最強の海軍力をもったイギリスとの戦争は、技術力の差を思い知るかたちとなりますが、
イギリス側も想像以上に薩摩の強い戦意を脅威ととらえたり、天候の悪化、補給が得られない、艦長二人の死亡、
多数の負傷者をだしたことなどで撤退します。

薩摩の城下は大火となり蒸気船三隻を失うなど甚大な被害を受けますが、
人的損害はイギリスのほうが多く、世界最強軍との戦いに薩摩は善戦したともいえます。
 
そして、進まぬ賠償交渉の中で、賠償金が欲しいイギリスと近代技術や海軍力を得たい薩摩はイギリスに思わぬ提案をします。
「軍艦を購入したい」です!なんと、賠償交渉からビジネス交渉に切り替えてしまいます!
イギリスも日本との貿易を拡大したいので妥協点が見つかり、賠償金は幕府から立て替えという形で支払います。
(後に、薩摩はその立て替え金を踏み倒している)
薩摩は、幕府立ち合いの中でイギリスから最新の武器艦船購入のお墨付きを得られた形となりました!(後の倒幕につながる)
ここから、双方「対立からフレンドシップ」へと風向きが変わるのです。
 
この薩英戦争で捕虜となった五代友厚は富国強兵の為イギリスに留学生を派遣する旨の上申書を薩摩藩に提出します。
軍事力の差をただ埋めたいだけではなく、その背景の 科学・産業・貿易・商業・思想を吸収したいと考えました。
当時の日本は鎖国状態で開国派と攘夷派で二分する時代ですが、
元々先代のお殿様の影響で西洋の文化や技術を積極的に取り入れ学ぶ環境がありました。

そのなかから、13歳~33歳の19人が選抜され藩命が下されます。
その19人には身分の差はなく、通訳や各分野の技術者、そしてあえて攘夷派からも選出します。
鎖国の時代ですから出国は許させていません。藩から変名を与えられ、偽装として島への出張辞令書も貰いました。
19人は五代友厚と親交のあったグラバーの船に便乗しこっそり出国(密航)したのです。
(乗船直後 刀を取り上げられてしまう)
 
ここから、命がけであり藩の存続をかけた壮大な冒険が始まります。
 
そのこっそり出国した地、いちき串木野市に「薩摩藩英国留学生記念館」という施設があり、そこへ行ってきました。
 
 
 
↑薩摩藩英国留学生記念館
 
 
 
↑密航船へここから小舟で旅立つ
 
 
 
↑薩摩スチューデント(ちょんまげは切っていますね)
 
イギリスへは、香港、シンガポール、インドなどイギリスの植民地を経由して二カ月かかったようです。
経由地では松ぼっくりの果物(パイナップル)、アイスクリームを初めて食べたり、製氷工場を視察し、
蒸気機関車に乗り、エジプトでピラミッドを見たり、2ヶ月かけてイギリスに到着します。相当なカルチャーショックを受けたことでしょう!
イギリスでは彼らが到着した直後に地下鉄が開通します。日本ではまだ人力の篭の時代、、、
 
留学生活では、最年少の長澤鼎(かなえ)は成績優秀者として現地の新聞に載ったりしています。
また、彼らは素晴らしい恩師に恵まれながら見聞を広げ、
現地では「薩摩スチューデント」と呼ばれ親しまれるのです。(日本では明治維新が始まるころ)
 
薩摩藩の財政が厳しくなると、数名に帰国命令がきますが、
さらにアメリカに渡り見識を広め明治維新の混乱の中薩摩の為から日本の為に力を尽くしていくことになるのです。
その後の「薩摩スチューデント」の功績を記します。
 
五代友厚
⇒明治新政府より役人として大阪へ赴き、大阪経済の立て直し、大阪商工会議所や証券取引所、
 大阪市立大学を開設し、後に実業家となり造船や鉱山開発に尽力し、日本の近代化の立役者となる。
 
寺島宗徳
⇒帰国後外交官となり後に外務大臣、文部大臣となる。
 
村橋久成
⇒サッポロビールの前進となる工場を北海道に作る。
 
堀 孝之
⇒五代友厚と共に大阪経済の発展に知力。
 
町田久成
⇒後の東京国立博物館館長。
 
畠山義成
⇒後の東京大学学長。
 
松村淳蔵
⇒海軍教育に尽力。
 
朝倉盛明
⇒兵庫幾野鉱山を復活させる。
 
森 有礼
⇒文部大臣になり日本の教育制度に力を注いだ。
 
吉田清成
⇒アメリカ特命全権大使として不平等条約改正に専念。
 
中村博愛
⇒外交官となり後に議員となる。
 
そして、最年少でイギリスに渡った 長澤 鼎は後にアメリカにも渡り、
カリフォルニアでワイン作りを成功させブドウ王となり、エジソンとも親交を深めるのです。
 
いかがでしたか?
当時、西欧列強にいつ飲み込まれてもおかしくない時代、こういう方々の「志」が列強を跳ね返していたのかもしれませんね。
 
生麦事件が無かったら、サッポロビールは存在しなかった?かも、
 
 

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